人生に意味は無い
人生に意味はないと言うと怒る人がいるのは承知している。私の人生には意味があると信じている人が多いからだろう。
しかし、個々の人が自分の人生に意味があると思っているからといって、人生一般に意味があるとは限らない。この2つは別の事柄だからだ。
ところが「人生」ということばは“指し示す具体的な対象”を持たないので、このことばを聞いたとき頭に思い浮かべる想念は人それぞれ異なるはず。にもかかわらず「ことばはなんらかの対象を指し示すはずだ」と信じていると、「人生」はある同一性を孕んだ概念を意味するに違いないというドクサ(臆見=根拠のない、推測に基づいた考え)にとらわれてしまうというのです。
とはいえ、なにを「人生の意味」と考えるかが人によって違う以上、「人生の意味」もまた千差万別。したがって、不変で普遍な人生の意味なんてないわけです。
「人生の意味」は世間に流通する物語であって、生きる方便として適当に利用するのは、別に悪いことではないけれども、マジに信じるとろくなことにはならない。
人間は意味のわからないものを恐れる
人間はあらゆるものに意味を見出そうとしますが、おそらくそれは「意味がわからないものに対する恐怖心」が関係しているのではないかと著者は考えているそうです。たとえばムカデやナメクジなど、「なにを考えているのかわからない生き物」に本能的な恐怖を感じるのも、その存在が自分の理解を超えているから。
人間は、何か自分達の理解を超えたものと相対したときに、その意味を理解することで安心しようとする
ただし、そうはいっても多くの人にとって、すべての存在物に合理的な意味を見出すことは困難でもあり。
しかし、あまりにも意味を求め、「万人にとっての正しい生き方があるはずだ」などという思考に取り憑かれてしまうと、それは手の施しようがない重篤な状態になってしまったようなものだというのです。
もちろん意味を求める性質があったからこそ、人間は論理的な思考を身につけ、文明を発展させることができたのかもしれません。けれども「意味を求める病」が重症になってしまうと、死にたくなったり、自分は無価値だと考えたりして、不幸になってしまう可能性も否めないわけです
視点を変えれば人間の評価も変わる
また、しばしば物事の判断基準となる「無駄」という考え方についても意識しておくべきことがあるようです。無駄だと思われているものが、状況の変化によって無駄ではなくなるケースもあるものだから。
すなわち、なにが無駄でなにが有用かということは環境の変化によっても変わるわけです。一見無駄なものであったとしても、なるべく多様性を担保しておくことは将来のリスクヘッジのために意味があるのです。
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